SUPER FORMULA NEXT ”1/50” にこだわってみるブログ

日本のトップフォーミュラを観に行こう!

自分のアナログなモースポファン歴を振り返ってみる

オートスポーツの「国内トップフォーミュラ特集号」を読んで、私のモータースポーツファン歴の中で思い出深い出来事を一覧にしてみました。

私の手元には、雑誌も含めて思い出の品々はほとんど残っておらず、机の前で思い出してはネットで調べて書いてみました。まる3日ぐらいかかりましたが・・・

ひとつ思い出して、ひとつ調べながら、『なんでこんなにアホみたいに一生懸命やってたんだろう』と笑ってしまいました。

この一覧を見た同世代の方が『またサーキットへ行こうかな』と思っていただけると嬉しいですが、私の本当の目的はそこではありません。

中学生でサーキットへは行けなかった時でもこんなに楽しめることがあったんです。漫画に映画に音楽にプラモデルに展示会など、サーキット外やシーズンオフにも何かありました。いまはデジタル全盛時代ですが私の過去はアナログの塊のような時代です。何かを見たい・聴きたい・知りたいと思ったら足を運ぶしかない時代でした。デジタルは便利ですが、アナログな楽しかった思い出の中に、何かヒントがあるかもしれない。そういう目的もあってつくってみました。

すごい!と思うのはここにある思い出の多くはアナログ時代の産物ですが、そのほとんどをYouTubeで見る・聴くことができます。興味がある話題があったらぜひ検索してみてください。

 

=== 何がそんなに楽しかったんだぃ!?わたしのモースポファン歴年表 ===

 

1974年(小6):「5台のF1マシンが来日、富士SWをデモラン」

ある日のスポーツ新聞でこの記事を読んで初めてF1の存在を知る。私のレース好きはここから始まった。

1975年:映画『One By One: F1グランプリ-栄光の男たち』が公開
70年代のF1とスターが勢ぞろい。この頃は今のような小型オンボードカメラはなく、本物の映画用フィルムカメラをロールバー付近に固定したマシンが走って撮影をしていた。ドライバービューの映像を見るのは初めてで興奮と感動の連続だった。

1976年(中2):F1世界選手権 in Japan(富士SW)開催

大雨と未成年が友達同士で観戦に行くのは危険と親が反対。観戦を諦める。

1977年(中3):『赤いペガサス』(村上もとかさん作・画)

週刊少年サンデーの F1 漫画『赤いペガサス』(村上もとか)に夢中になる(1979年まで連載)。次作の『ドロファイター』は賞金レースを求めて全米を旅する日系人レーサーの漫画だったがこれにもハマる(1979年~1981年まで連載)。のちにあの『JIN - 仁 - 』で村上もとか作品と再会する(ちょっと感激)。

1977年(中3):「日の丸ライダー、ここにあり」

全国紙のスポーツ欄にあった「日の丸ライダー、ここにあり」という記事で片山敬済さんのことを知る。単身渡欧、孤軍奮闘で有力チーム入りのチャンスを獲得。そして同年世界GP350ccチャンピオンになったときの(確か)読売新聞の見出しがこれ(この切抜きだけはずっと大切に持っている)。

1977年(中3):F1世界選手権 日本グランプ(富士SW)開催

今回は親を説得して友人と御殿場へ。観客死亡事故は本当に残念な出来事だった。

1977年(中3)~1980年(高3):スポーツ新聞を買い古本屋をめぐる

このころの F1 放送は TBS の日曜午後と決まっていて3,4戦まとめて 90分程度。F1 カメラマンの間瀬明さんの解説だった。この頃から私はF1レース結果を知るためにスポーツニッポン紙(以下、スポニチ)をキオスクで買っていた。写真なしで小さな記事。運が良ければ月曜日に予選結果、火曜日に決勝結果が掲載されていた。毎月オートスポーツ(確か当時は 370円ぐらいだった)を隅から隅まで読む毎日。読むところがなくなると、絵を描いたりプラモをつくったり。お小遣いをもらうと自転車で沿線にある古本屋さん探しの旅へ。オートスポーツやオートテクニック(すでに廃刊)、CG の古本を探しては買い込んで読んでいた。一番古かったのが確かホンダ F1 第一期 RA300 ごろの荒川河川敷テストコースでのスクープ写真記事だったと思う。

1978年:東京は晴海の国際展示場でレーシングカーショー

映画『ポールポジション』公開記念として開催。F2000 と FP(フォーミュラパシフィック)マシンの展示とドライバーサイン会があった。催しの目玉は晴海埠頭会場内の特設コース(確か100m折り返し程度のモノだったような)で F2000 とタイレルP34 がでもランを行った。この頃はバイクの3ナイ運動全盛時代。ゆえにレーシングカーが一般公道を封鎖してデモランをするなんて警察が許可するはずもなくまず無理な時代。そのため遠いサーキットまで行かなくてもレーシングカーが走る!見られる!と大興奮だった。2011年の横浜公道でのレッドブルF1のデモラン、2015年の大阪御堂筋でのフェラーリF1のデモラン、2019年の東京青山外苑でのレッドブルF1によるデモラン(約1万人のファン)、2021年の同会場でのレッドブル・イベントの SF / SUPET GT / MotoGP約4000人のファン)のデモランと次々に公道で開催されるようになり、時代もずいぶんと変わってきたと感無量。

1978年:映画『ポール・ポジション』が公開

1970年代のF1グランプリの裏側を捉えたドキュメンタリー映画。1980年には続編『ポール・ポジション2』も製作された。主題歌を歌っていたのがTINNAという日本女性デュオ(惣領智子さんと高橋真理子さん)。とても声がきれいで好きだった。翌年に童夢が斬新なデザイン(オレンジ色のRolandカラーもカッコよかった)のDOME RL-80でル・マン24時間レースに挑戦。その時にTINNAが『童夢 ~ DOME IS A CHILD'S DREAM』というサウンド・トラックをリリースした。これも素晴らしく良かった。TINNAはモースポ関係以外でも、全日空のCMソングやニッポン放送全日空ミュージックスカイホリデー」のメインテーマ曲、TBSドラマ木曜座の主題曲なども歌っていた。

1978年(高1):ここは欧州F2か!と思ったJAF鈴鹿GP

本場ヨーロッパのF2/F3ドライバーが大挙して参戦。マーチワークスのジャコメリ、ワーウィック、アルヌー、ピローニ、パトレーゼ・・・とのちに F1 で活躍するドライバーばかり。ワークスマーチのブルーノ・ジャコメリ(レーシングメイト782、マーチ782/BMW M12/7)のシンプルなBMWカラーはもうビューティフル級にカッコよかった。一方迎え撃つ日本勢では星野一義選手のPENTAX ノバ532P/BMW M12/7 が一番好きだった。前年に発売されたタミヤの RC カー 1/10 タイレル P34 シックスホイラーを改造してPENTAX ノバ532P をつくるほど好きだった。

1979年(高2):F2 はマーチ時代へ。星野一義選手のPENTAXマーチ792 の思い出 

ヨーロッパではマーチ782から 792 へ。国内勢もマーチにシフト。ワンメイクではないが色とりどりのマーチを見るのも楽しかった。この年、高校の美術で「紙を使った造形」課題があり、丸二週間かけて星野一義選手の 1/20 PENTAXマーチ792 BMWを作った。タイヤもBMW4気筒エンジンもマニホールドも紙でつくった。美術の顧問先生がとても気に入ってくれて卒業後10年ぐらい美術室に飾られていた(今思えばアホみたいに時間を忘れてつくった)。

1980年(高3):ホンダがヨーロッパF2に復帰

ドライバーはジェフ・リース選手、タッグを組んだシャシーコンストラクターはラルト。マシンの型番はRH6。シーズン後、東京多摩テック(すでに閉園)にRH6が展示された。『走るところを観に行きたいなぁ』という気持ちで、単なる展示(笑)なのに2時間ぐらい眺めていた記憶がある。ブリティッシュグリーンのラルトは本当にカッコよかった。多分、この時に『これが日本で走るなら F2 を観に行きたい!』とこころに決めたのだと思う。

1980年(高3):ウォルターウォルフカラーの MCS-1を品川で発見

品川に住む友人が近所のガレージで WWRカラーの MCS-1 を発見した。ムーンクラフトのボディに F1 の世界のようなウォルターウォルフカラーの GC マシンだった。友人と見に行くが、スタッフの方に見学したいと言いだす勇気が出せず、遠くから眺めるだけで終わる。残念!

1981年:ラルトホンダがヨーロッパF2選手権を、全日本はi&iレーシングが制覇

ドライバーはジェフ・リース選手と中嶋悟選手。中嶋悟選手のマーチホンダ812 は真っ白なマシンに真っ赤な日の丸。メインスポンサー名も赤基調でコックピットカウルに丹頂鶴のマーク。中嶋選手のヘルメットも赤白基調のデザイン。生沢徹さんの現役時代を彷彿させるデザインだった。後にこのキヤノンのCM『連写一眼! Canon AE-1プログラム(中嶋悟・マーチホンダ編)』を見て AE-1P を買いって鈴鹿へ通い始めた。PENTAX星野一義選手のマシンに、Nikon はマヅダのルマンカーに。今は苦境のカメラ業界。当時はそうやってモースポでカメラが売れた時代だった。

1982年:『汚れた英雄

原作は大藪春彦のハードボイルド小説。角川映画の代表作のひとつでもある。主演は草刈正雄さん、レベッカ・ホールデンさん、木の実ナナさん。ローズマリー・バトラーのパンチのある主題歌(英題:Riding High)も好きだった。レースシーンは菅生でロケが行われ、ヤマハプライベートチームとそのライダーだった平忠彦さんが実走行シーンを担当した。映画の北野晶夫と全日本ロード選手権を走る平忠彦さんは同じマシン、同じヘルメットと革つなぎ姿。鈴鹿のロードで走る平選手を見るとまるで『汚れた英雄』の世界を見ているような不思議な気分だった。平忠彦さんはこのあとヤマハワークスと契約。資生堂が発売した男性用化粧品「TECH21」がメインスポンサーの淡いラベンダー色のマシンに乗って鈴鹿8耐やロードレースで大活躍した。

1984年:『ウィンディー』(Windy Story)
原作は小説。故渡辺裕之さんとクリス(子役)さんが親子でコンチネンタル・サーカス(モーターサイクル・世界GP)を転戦するドラマ。この映画の主題歌 "Two In The Wind" は井上鑑さんと惣領智子さんのデュエット。映画も主題曲もとても良かった。私の故渡辺裕之さんのイメージはこの作品の杉本ケイ。それだけに訃報を聞き愕然とした。

1982年:鈴鹿グレート20レーサーズとJAF鈴鹿グランプリ

この年は全日本 F2 全6戦のうち富士を除くすべてに行く。金曜日のフリー走行から通う。パドックパスでドライバーのサインをもらうことが多かった。鈴鹿グランプリのときはステファン・ヨハンソンとティエリー・ブーツェンに、自分で撮影した写真にサインをしてもらった。このレースで故高橋徹選手が F2 初戦で2位という衝撃的なデビューを飾った。

1982年:夏の祭典といえばこれ、鈴鹿8時間耐久ロードレース
私にとって「夏の野外フェス」のような存在だったのが鈴鹿8耐。前日の4耐も含めて、とにかく灼熱の中を歩く、飲む、寝る(笑)。そしてゴールの花火で打ち上げ!。この年の大会は例外。台風直撃により史上初めてレース時間が6時間に短縮された。大荒れの中、本田技研朝霞研究所のクラブチーム、ブルーヘルメットMSC の飯嶋茂男/萩原紳治選手組が日本人ペアによる初勝利を飾った。

この年ではなかったが、ゴール後にパドックへ行き、サマーベッドで休憩中の故ポップ吉村さんを発見してサインをもらった。握手してもらったときに、私はホンダ党だが(笑)、『来年も頑張ってくださいね!応援してます!』と言うと『はい!』とビッグスマイルでひと言頂いた。握手してもらったポップさんの手。日焼けと落ちないオイル跡で真っ黒だった。やっぱりポップさんはすごい。日本のプライベーターはすごいとちょっと感動した夏だった。

1982年:『大分県別府市公道で F2/ GC レースを計画』が掲載

記憶が定かであれば、オートテクニック(すでに廃刊)、オートスポーツ週刊プレイボーイのような一般週刊誌でも、70年代から『別府市の市街地でモナコGPのような公道レースをやろう!』的な記事はあったように記憶している。日本のF2 ファンにしてみれば『マカオにできてなぜ日本でできない。目指せ東洋のモナコ!』的な思いもあった。実現しなかったが夢のような企画だった。

1982年:台風で出走直前に中止になった日本GPロードレース大会の粋な計らい

この大会はメインの500cc クラスが台風の影響をうけて出走直前に中止となった。強風と雨の中、500ccクラスにエントリーしたワークスライダーもプライベーターも『レースは危険』とメインスタンド前に並んで観客にレース中止を呼びかけ、観客は拍手でそれに応えた。その代わりのファンサービスとしてパドックが来場者に解放され、私はこの時に片山敬済さんにサインをもらった(感激)。

1983年7月:ホンダがF1に復帰(イギリスGP、スピリット201)

76年に『ホンダがレースに復帰する時(高斎正著)』を読んだ。何回読んだ?と思うぐらい、『小説ぐらい夢がなきゃね』と飽きずに何度も何度も読んだ記憶がある。後に「その時」が来るなんて思いもよらなかった。しかもドライバーは鈴鹿でサインをもらったステファン・ヨハンソン選手。ダブルで感激の年だった。

1983年:富士グランチャンピオンレースの MCS もグランドエフェクトカーの時代へ

富士 GC シリーズはテレビでずっと見ていた。1980年ごろから GC が単座席になったがこの頃の MCS はマーチ F2シャーシにスポーツカウルとグランドエフェクトデザインのサイドポンツーンを採用していた。F2 のシャシーや部品を GC マシンにも使ってしまうアイデアは本当に素晴らしかったと思う(1989年シーズンをもって GC は閉幕)。

1983年:ジェフ・リース選手が全日本F2選手権でチャンピオンを獲得

エントラントはジョンプレイヤースペシャル Team Ikuzawa。マシンはスピリット 201 ホンダでタイヤはブリジストンではなくダンロップだった。トランスポーターもJPSカラー。さすが生沢徹さんの美学、まるで往年のロータス F1 を見ているような美しさだった。 

1983年:日本GPロードレース大会、フレディ・スペンサー選手が NS500 で凱旋出場

"Fast Freddie, Super Star" と言われ、83年世界GP 500ccクラス・チャンピオンに輝いたフレディスペンサー選手が世界GP ウィニングマシンの NS500 と共に凱旋出場。この週末は暑かったが金曜のフリー走行から鈴鹿へ。パドックで2時間、フレディを張り込んでサインをもらった(感激)。

1983年:東京多摩テックでスタジアムトライアルを観戦

トライアル競技を初めて観戦。この頃はアメリカ流合理主義というべきか、わざわざ遠くへ行くのではなくスタジアムの特設会場でモトクロスを開催するのが流行。この大会も同じような試み。寒かったけど生で観て大正解だった。難度の高いセッションを次々とクリアする世界GPチャンピオンのエディー・ルジャーンのテクニックには言葉なし。本当に凄かった。

1984年:マイク・サックウェル選手がヨーロッパF2選手権でチャンピオンを獲得

マシンは青白ツートンカラーのラルトホンダRH6。メインスポンサーは CASIO だった。時計のカシオかデジカメのか?。当時の欧州市場でのカシオ製品の位置づけが思い出せない。ホンダV6エンジンは1983年~1984年ヨーロッパF2選手権で通算12連勝を達成。

1985年:オートバイショップ「Team Ikuzawa」で生沢徹さんとおしゃべりする

生沢徹さん率いるTeam Ikuzawaが、ムーンクラフト+無限の「ホワイトブル」で1984年・1985年と鈴鹿8耐に参戦。『ショップの前を通ったらホワイトブルが飾ってあったから見に行こうよ!』という友人のひと言で何気なく行ったその日に生沢徹さんが!短い時間だったがF2のこと鈴鹿8耐のこと、お話をちょっと聞かせて頂いた(感激)。

1986年:中嶋悟選手が全日本F2選手権でチャンピオンを獲得

マシンはEPSONマーチホンダ 86J。これが私の最後のF2、国内トップフォーミュラ観戦。カッコよく言えば『トップフォーミュラ観戦第一期』が終わった。ホンダの活動中心がF1にシフトし、私は91年からアイルランド(ダブリン)に行くことを決めたため、この後のレース観戦は肩の力を抜いて(笑)ちょっと気楽に楽しむようになった。87年~90年秋に鈴鹿で開催されたF1だけは友人と観戦に行った。

1987年:これは面白い!ホンダエコノパワーレースに参加

正式(?)名称は本田宗一郎杯 Honda エコノパワー燃費競技全国大会。通称『エコラン』。毎年埼玉県桶川(モトクロス通には説明不要の地)にあるホンダエアポートで開催されていた。会社の先輩2人(ドライバー、エンジニア)に誘われて雑用係兼時々メカニックとして雇われる(笑)。軽バンに色々詰め込んで前日から現地でテント泊。あの時から軽キャンパー(笑)。翌日早朝にテントを出たところを『ズームイン!朝』にパパラッチ(笑)された。翌月曜日の朝の同番組で15秒ほど出演したのが一番の思い出に(ホビー競技なので結果はそれなりということ・・・)。

1991年10月:アイルランド(ダブリン)へ渡る。ダブリンで開催されたRDSモーターショウでジョーダンGPマシンを見て感激!

当時の大躍進ニューカマーチームで、大注目マシンのひとつだったあの’ハイノーズに7upとアイリッシュグリーンカラーのジョーダン191がとにかく美しかった。チームオーナーのエディー・ジョーダンはアイルランド人。

1992年7月:夢だったマン島を自転車で旅する

92年夏、約1か月かけてアイルランド北アイルランドを約3000キロほど自転車で旅して最後に夢だったマン島へ渡る。TTレースウィークは5月だが、いたるところでクロムウェルヘルメットに革ライダージャケット、トライアンフのようなクラシカルなバイクに乗った集団に遭遇。テレビや雑誌でしか見たことがなかったマン島。感慨無量だった。帰路は大時化の中を船で北アイルランドベルファストへ渡り、ベルファスト経由でダブリンに戻った。

話が飛ぶが、2006年に故石原慎太郎都知事(当時)がマン島TTレースを視察し、東京都三宅島で公道を使用したモーターサイクルレースの開催を目指したが、「危険極まりない」という理由でバイクメーカー・周辺業界・プロライダーからの猛反対の末に断念した。

1992年8月:フィンランドのユヴァスキュラでフィンランドラリーSSを観戦

ダブリンから、フィンランド人の友人マルティを訪ねてユヴァスキュラへ。夏の2週間をユヴァスキュラで過ごした。ユヴァスキュラはフィンランドが生んだ20世紀を代表する世界的な建築家、都市計画家、デザイナーとして有名なアルヴァ・アールトの私邸や作品で有名。日本のスキーチームの合宿地でもあり立派なジャンプ台がある。ラリー・フィンランド開催中でユヴァスキュラで開催されたスペシャルステージ (SS)を観に行った。過去は「1000湖ラリー」とも呼ばれていた大会。それほど大小たくさんの湖がある。白樺の森と湖が点在する未舗装路を冷静に超高速で駆け抜けるフィン(フィンランド人)。自転車のロードレースのタイヤは小指1本程度の幅しかない。そのタイヤでアルプスやピレネーの山岳下りを時速100キロ近くで下る。以前、オフロード競技(MTB競技やダウンヒル)出身者のほうがバイクコントロールがうまく下りが速いと聞いた。それと似ていて、オフロードでのマシンコントロールのうまさが近代F1でのフィンの速さの秘密かもと思った(キミ・ライコネンWRCラリーに多数参戦)。本会場でアリ・バタネンに遭遇。サインはもらえなかったが感激!。前年の1991年にバルト三国旧ソ連より独立、この頃は世界ラリー選手権エストニア人選手が大活躍していた。

 

これ以降は簡単に。

1983年ごろからF1放送を観るようになる。東京12チャンネルで放送されていた「SUPER GT+」という番組は時々見ていた。DAZNがF1放送権を獲得し、ホンダがアルファタウリと組んだ年からF1をもう少し”真剣”に見始める。そして22年、ホンダのエンジンサプライヤーチャンピオン獲得とF1撤退で、自分のモースポファン歴もまたひとつの区切りとなりました。